手を振った よかったね、と

生存確認として1ヶ月に1回くらいは書こうと思っていたのに、気づいたら2ヶ月くらい更新してなかった。このブログでしか僕の生存を確認できない可能性がある人というのは少数だけれど、生きております。


僕視点でも同じことが言えて、久しく連絡をとっていない人たちというのは、ブログなりTwitterなりがなければわからない。「もしかしたら死んでるかもしれない人たち」「死んで無いにしても何か不幸があったかもしれない人たち」を、たまに思い出しては不安に思うこともある。案外「どうなっていようが別にいいか」と不安を抱かない人たちもいる。時間によって薄れるものと薄れないものが、果たしてどれほど当てになる判断基準かはわからないけれど、まぁわからないからこそ「ああ、思っていたよりは、どうでもよかったのかもな」と考える。そうやって整理されて、別れていくのだなと思う。


今期のアニメも全然追いつけていない。
この間、アニメの感想を書こうとしても、言葉が出てこない自分を見つけて「語る」というのは、しないとできなくなるのだなと思った。1カット、1つのセリフ、細かい単位を繰り返し検証する。きっと気にすることなんてないだろう小さな何かを、「僕」の感想・感情だとわかるものを、集中して見つけ出す。きっと誰よりも真剣に観る。そして、できうる限り丁寧に、見たアニメを言葉にする。そういったことがもう難しいのだと、気づいてしまった。
きっと、すり減った末に一度諦めてしまったからだ。語っても、受け手がいない。受け手がいても、ミスだけをつつかれる。未来の自分が恥ずかしく思うかもしれない。それはだってもう、確定している。他にもいろんな理由があるけれど、そういったつまらない不安や失望が、塵が、どんどん積み重なって「ならもう他人に伝えることなんてないじゃないか」「わかりやすいように他人にわかる言葉にすることなんてないじゃないか」「どうせ意味などないのに」「誰も相手になんてしてくれないのに」と僕は諦めて、いじけた。
しかし。たとえうざがられようと、誰とも分かち合えないことだろうと、「僕」という人間をフィルターとして何もかもが歪んでしまうとしても、そしてそれはもう書き換えれないとしても、自分のためでしかなく自己満足でしかなかったとしても、自己満足だからこそ、自分のために、自分のためだけに、アニメを真剣に見て感想を書くことをやめるべきではなかった。アウトプットをやめるべきではなかった。そんな喪失感がある。俺は自分のためにアニメを見ていたのに、勝手に寂しがってしまった。本当は他人なんてどうでも良かったのに。
俺が決めたことだし、そうなってしまったことに納得はいく。つまり、しょうがないことなのだけど、もったいなかったなぁと、そう思う。