so a lot of heat curry give me no motorway

いつもすきというー


アニメは順調に溜まってます。


俺はいつどこで誰に何を話したかを、なぜだか記憶しないので
同じ人に同じ話を何回も話すことがよくある。いつも恥ずかしい思いをする。
数年前と言ってることが変化しておらず、自分は生きた化石なのではないかといった
おなじみの停滞感も同時に襲ってきたりして、息苦しく、消えたくなる。


街へいこうよ どうぶつの森』はプレイ動画を見ていたら満足してしまったので
代わりに年末にまったりプレイするゲームを買おうかと思っている。
せっかくWiiがあるので、『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』でも買おうかなと。


僕はゲハ板的な物言いをすれば、おそらく妊娠なのだけれど、
よくよく考えてみれば任天堂作品全般の信者ではなく、
一番好きなシリーズが『ゼルダ』であるだけであった。とある時気づいて
ゼルダ』が、子供の頃から、特に外圧無しに「純粋に」「自然に」好きだった対象であること。
オタクであるが故に「癖」になっている、頭でっかちな「評価」の外にあること。
そういう対象は子供の頃に存在していないと、大人になってから作り上げることは不可能なこと。
つまり希少価値があることに思い至り、『ゼルダ』という作品に特別を感じると同時に、
ゼルダ』をそういった風に捉え直して、まさに「評価」の内側に入れてしまうことで
思考ゲームが始まってしまうこと。「俺にとってコレは何?」が始まってしまうこと。
単に「好きなゲーム」として、ふわふわ脳内に漂っていた方が良かったのではないか。
こうやって今の感性に認識し直されること、言葉に置き換えることで、得られるものはあるのか、失うのではないか。
塗り替えられていく様々なモノは、本来の輝きみたいなものを失っていくのではないだろうか。
ここまで書いて、おおっと青臭いぜ? と思い僕は思考をやめるし、
この書き方だと未来の僕が読み直しても今の僕の考えがわからないと思うけど
上手く言えないのでこのままアップしておこう。


アニメ・マンガ・小説・ゲームあたりのオタ文化でサイクルしている。
曰く「今は小説のターン」な物言いは、俺の中では通じるのだけれど説明すると、
ゲームをやりまくる → 飽きる。普段なら絶対楽しいはずのゲームも楽しく感じなくなる → 鬼のようにマンガを読みまくる → 飽きる。普段なら絶対はまっているはずのマンガに心惹かれなくなる
などなど。しばらく小説を読まなかったり、アニメを見なかったり、ゲームしなかったり
オタク文化そのものから離れたり、ネットを見なくなったりetc...
その代わり、別の何かにはまっている。つまり、何にもはまっていない時期はない。
「今なんかアニメとか見る気しない。でも小説ごっつ読みたい」といった「気分に支配される」
そんなことを繰り返して僕は生きていくのさ、ということ。
このサイクルは経験則から自然に受け入れている。
他人はどうなのかは知らない。


ジャンルごとに得られる快楽、たとえるなら「味」が固定されているわけでもない。
なのに「飽きる」「萎える」の判定がジャンル単位なのは、不思議な気もするけど
ラーメンはいかに奇抜なアレンジが施されようとも、ラーメンの域を出ない、とか、そういう話だろうか。
焼きラーメン」て、それはもうラーメンちゃうんじゃ! とか、あるにはあるけど。


そんなわけで、今はエロゲ期間、細かく言うとシナリオ系のエロゲ期間なので、今週末はエロゲをしてます。
幸せです。